1.メラノーマの病理組織診断から学んだこと
2022.10.01
過去の総会
斎田俊明先生
信州大学名誉教授
ある程度の期間、皮膚科医として仕事をした者であれば、おそらくメラノーマを誤診した苦い経験があるものと思います。メラノーマは臨床、ダーモスコピー、病理組織のいずれにおいても鑑別がとても難しい疾患が存在します。ですから、過少診断(メラノーマを良性病変と誤診)や過剰診断(良性病変をメラノーマと誤診)をおかす危険性が常にあります。誤診すると医師はプライドを傷つけられますが、メラノーマの誤診は患者の生死に直結しますので、プライド云々の問題では済まないのです。メラノーマ診断の最終的な責任者である皮膚科医は、心してこれに取り組まなければなりません。私自身は、当初、このようなリスキーな分野に踏み込むつもりはまったくありませんでしたが、いつの間にかメラノーマ診断の専門家ということになってしまいました。この間の事情の一端をここに記すことに致します。
私は元来、画像認識能力をほとんど欠如する人間です。小中学生の頃からスケッチが苦手で、自分には形を捉える能力がないことを痛感していました。形や色に基づいて物事を分類することも不得手です。ですから当然、医学部の学生時代、解剖学と病理学の成績は悲惨なものでした。顕微鏡の前に座ると溜息が出るという状況でした。そういう人間が皮膚科医になったのですから、つらいものがありました。皮疹(形と色で構成されています)を的確に認識し、評価することができないのです。というわけで、私は診断能力の著しく劣った皮膚科医としてスタートすることになりました。
その後、いろいろな事情があって、メラノーマを少し真面目に勉強しなければならない状況に追い込まれました。1980年代前半のことです。メラノーマと母斑の病型分類や病理組織診断を自分なりに学び始めたわけですが、なんだか訳の分からないことが多く、混迷が深まるばかりでした。これは自分に才能がないのだから、やむをえないことだと謙虚に考えていました。ところが、たまたまその頃、メラノーマをめぐってClark学派とAckermanが熾烈な論争を繰り広げていたのです。実に刺激的な論争がAm J Dermatopathol誌などに毎号のように掲載されました。Ackermanの主張は、メラノーマのClark分類は不合理である、良性の母斑とメラノーマの中間病変としてのdysplastic nevusなどというものは存在しない、というものでした。世界中の皮膚科医、皮膚病理医が認めていたClark学説をAckermanはたった1人で全否定したのです。この論争を目の当たりにして私は、自分が感じていたメラノーマの病理診断に関する訳の分からなさが、かなり本質的な問題に起因するものらしいことに気づきました。これは私にとって実に大きな経験でした。何か違和感を感じる問題に遭遇したら、根本に立ち返って自分自身で徹底的に考察しなければならない、ということです(これは病理診断に限ったことではありません)。その後、かなり時間はかかりましたが、メラノーマやその他の皮膚腫瘍の病理組織診断について、自分なりの理論的枠組みを何とか構築することができたのです。添付の画像は、私が診断したメラノーマ早期病変と良性のClark母斑の臨床像、病理組織像です。両者の形態学的所見の差異は、それぞれの生物学的本質の反映として理解することできるのです。
私の診断法は画像からの直感ではなく、理屈(言葉)で理解しようとする点が特徴だと思います。画像の直感的認識能が劣っているのですから、これは当然のことです。その代わりに、論理で何とか対応しようとしたのです。皮膚科の形態診断において「暗黙知」というようなことが言われます。確かに画像認識能の優れた皮膚科医はそうなのかもしれません。しかし、私はそういう才能を欠如しているのですから、理屈で考えるより他にやりようがないのです。暗黙知を他人に言葉で教えることは困難でしょう。しかし、理屈であれば、明晰な言葉で表現することによって、他人に正確に伝えられるはすです。そしてこれがなかなか楽しいことだと気づきました。私が皮膚病理やダーモスコピーの教科書を数冊書いた背景には、このような経緯があったのです。
メラノーマ早期病変(superficial spreading melanoma in situ)とClark母斑の臨床・組織像
両病変とも背部に生じた最大径1cm程度の色素斑。Melanoma in situは臨床的に不規則・不整形状の黒褐色斑としてみられ(a)、組織学的には表皮内にメラノサイトが乱雑に分布し、表皮上部にまで及び、個別性増殖も目立つ(b)。これに対し、良性のClark母斑は、臨床的には不規則性の目立たない黒褐色斑としてみられ(c)、組織学的にはメラノサイトが表皮突起先端部などに主として胞巣状に存在する(d)。